院長からのひとこと

矛 盾

 本能とは、個体の存続や種族の繁栄に対して、秩序だった行動形式を指示することと理解しています。そして野生に暮らす殆んどの生物は、この本能を道標として生きているのですが、本能の壊れてしまった人間は、何を道標にして生きて良いか判らず、そのために自我という人工的な道標を作り、またその集団の道標を道徳としました。しかし、所詮人工的なものでしかないため、ちょっとした矛盾に出くわすと、簡単に崩れてしまうのです。
 神を絶対視する西洋では、神にその自我を置きましたが、自然科学の発展とともに、彼ら自らがその自我を崩してしまう結果となり、神経症を患う人々が増えてしまいました。そういう背景があり、西洋に於いて心理学が発達しましたが、結局その心理学に対しても西洋文化の色彩が強く出てしまい、神を中心とした絶対主義を根本として考えてしまうためなのか、今現在でも自我の構築を目的とした心理療法が主流を占めているようです。
 そこで、私自身の考えを述べさせてもらいますと、やはり自我は人工物でしかないため、その自我を構築することは一種の抑圧であり、本末転倒だと思うのです。さらに、抑圧されたものは必ず場所や形を変えて回帰してきますので、問題をさらに複雑化してしまう恐れがあるのです。よって、そんなものはいっそのこと壊してしまえばいいと思うのですが・・・。となると、人は本当に道標を失い、何に価値や目的を見出せばいいか分からなくなってしまいます。自我を構築しても、自我を壊しても、私達人間は矛盾から抜け出せないのでしょうか?
 仏教では、人に関わるすべてが自己矛盾であると説いています。「死ぬのなら生まれなきゃいいのに」・「別れるのなら出会わなきゃいいのに」・「得られないなら求めなきゃいいのに」・かの一休さんも「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな」と、ずばり言っています。また、修行僧が執着を消そうと苦行していらっしゃいますが、結局は執着を消すことに執着しているのではないかと思うのです。

 人は、道標を説いてくれる人を探し、その人を教祖にしてしまう病気に罹っていると、前回紹介しました心理学教授の岸田秀氏が言っていますが、「教祖を作るのが人間の病気だ」と説く岸田教授を、教祖のようにしてしまう読者がいて困る。と、ここでも矛盾が生じています。やはり、人間は本能が壊れてしまっているため、結局は幻の中でもがいているにすぎないのでしょうか?
 ここまでの話で終わってしまいますと、前回述べましたニヒリズム(虚無主義)となってしまいます。が、人の脳は、進化の過程ですばらしいものを手に入れました。それは「共感脳」別名ミラーニューロンです。この内側前頭前野に存在するこの部位は、人の表情に敏感に反応し、その人の心情を察し、さらに共感してしまうという人間の脳に於いて特に発達したところなのです。私達は町に出かけた際、いろいろな人とすれ違いながら歩いていますが、そのとき殆んどの人は、チラッとすれ違う人の表情を見ているはずです。そして、一人一人の表情から色々な思いを受け取っているのです。ニコニコしている人がいたならば、なにかいいことがあったのかな?など、心に浮かびますし、泣いている人がいれば、自然とこっちまで悲しくなってしまいます。よって、人はこの共感脳を通じて、他の人の心と己の心とを共鳴し合い、写し返しながら幸福感を得るのです。要するに、人の笑顔を見ることが己の幸福であり、その笑顔を己の笑顔で他に伝え、どんどんと笑顔のコミュニケーションが広がって行くのです。そして、この笑顔を己から発信すればいいのです。己の本当の笑顔が自然と沸きあがってくる「志」を見つけること!これが道標だと思うのです。



                                  2011年11月28日
                                     大野 悟