院長からのひとこと

ストレスの考察

 昨年、某テレビ局にて「腰痛」をテーマとした番組が放送され、その中で腰痛の原因となっているものとして、「ストレス」が7〜8割を占めていると説明があったらしく、それを観られた患者さんが、「先生の言われていたことは本当だったんですね!」と、納得されてくださいました。私達施術家は、自身の経験や一部の書籍などから、そのことについては既に理解していましたが、どうしても皆様には、悲しいかな一施術家の戯言よりも、マスコミがメディアを通じて放送する側を信じてしまう傾向にあるようです。しかし、このように世間やマスコミが、何でもかんでもストレスが原因と吹聴していると、ストレスとは害毒であり、是が非でも排除すべきもの、またストレスが全く無い状態が理想であるというふうに捉えがちになってしまい、その為か余計にストレスに対し皆を神経質にさせてしまっているように思えてならないのです。さらに、「ストレスを解消するための癒し」と、今度は「癒し」を合言葉にした便乗商法のようなものが多数登場し、中には自らを「癒しの治療家」と称し、どんな治療をするのかと思いきや、患者さんに媚びへつらうだけの「卑しい」治療紛いなことをしている者も、湧いて出てきている始末です。では一体なぜこの様なことになってしまっているのでしょうか?国民意識が、物質的充足や時間短縮の利便性の追及だけでは飽き足らず、個人の精神的快楽まで受動的に得ようと悪足掻きしている、平和ボケの極致に達しているように感じてしまいます。
 然るに、この度題材にしましたストレスとは、肉体的なものではなく、精神的なストレスのことを指していますが、考えてみますと人生とは、思い通りにならない事ばかりであり、よって生きていること自体がストレスでなのです。またこれとは逆に、全てが思い通りになる人生だとしたらどうでしょうか?楽しいことばかりだと、楽しいことも楽しいと感じられないはずです。よって、これほどつまらない人生はないと思います。要するに、ストレスがあるから楽しみや喜びがあるということになるわけですが、本能の壊れた人間は、底なしの欲望を満たそうとするため、自らを押し潰すほどのストレスを、無意識のうちに抱え込んでしまっているのです。例えばのどが渇いたとしても、一升も水は飲めませんが(中にはいるかも)、ことお金や名声となると、人はいくらあっても満足しません。「足るを知る」という言葉をよく耳にしますが、どこにボーダーラインを引けばいいのか分かる人間など何処にもいないのかも知れません。結局、ストレスを苦しいものに変えているのは、何を隠そう心の解釈だと思うのです。いかがわしい欲望を満たすために発するストレスであれば、己の誠の心は苦しみとして捉えるでしょうし、「志」に向かって突き進む際に生じるストレスであれば、辛くとも心地好いものでしょう。
 実は「腰痛」もこれと同じで、そもそも痛みとは身体の状態を教えてくれる信号としてあるべきものですが、病気への不安や、死に対しての恐怖、または様々な執着から生じる苦悩により、痛みが苦しみへと変化してしまい、耐えたれないものにしてしまっているのです。鬱病の薬を服用すると痛みがなくなったという話をよく医療関係者から聴きますが、まさにこのことを説明しているのだと思います。よって、己の心を己によってしっかり分析することが、ストレスや痛みを苦しみに変えない秘訣ではないでしょうか。

 *ここ一年間我武者羅に「心」について勉強したつもりですが、行き着いた先は「唯識論」でした。唯識論については様々な本が出ていますので、是非興味のある方は、お読みになられるようお勧めいたします。



                                  2012年 1月12日
                                     大野 悟